古代蓮 行田昔ばなし 十三七つ 1〜10

行田昔ばなし 十三七つ 1〜10

行田昔ばなし 十三七つ 1 なっと、なっと、なっとー

 

作者不詳 行田市北谷住人

 小林君は体の悪いお父さんと二人で小さな家に住んでいた。信吉(しんきち)が時折遊びに行くと、垢(あか)じみた着流しを着ていつも横になっているようだった。おじさんの目はくぼみ、頬がこけて、顴骨(けんこつ)が張り出している。二の腕までつまんだ着物からは、病的な青白い細い腕がはみ出していた。
 信吉が行くと起きてきて狭い土間に降り、七輪にやかんをかけると新聞紙で火をおこしてお茶を入れてくれた。
 やかんはすすで黒光りしていびつになっていた。ゆがんだ蓋は閉められないままに火にかけた。湯がたぎってくると口元のかけた万古(ばんこ)の急須に、熱くなったやかんのつるを雑巾で持って湯を注ぎ、古九谷(こくたに)の縁の欠けた茶碗に茶を入れて出してくれる。
 茶の葉はいつ入れたのか、色もなく底まで見えて白湯(さゆ)に等しい。口元に持っていくとかび臭い匂いが漂っていた。信吉はおじさんがいつも大人と同じように振舞ってくれるのが嬉しかった。
 おじさんは結核で二年ほど寝込んでいる。当時は肺病になったら必ず死ぬと言われていたので、患者のいる家の前は鼻をつまんで駆け足で通るほど嫌われていた。
 おじさんは自宅で足袋の仕上げを下請けしている職人だったが、病気になってからは仕事もできなくなり、小林君が納豆売りに出たのはその頃、信吉が四年生の時だった。
 納豆売りは朝の仕事で、今では朝に晩にご飯を炊くが、当時は朝一度ご飯を炊けばいい方で、朝食に納豆を買ってくれるが、夕方は売れなかったと話していた。彼は雨の日も風の日も売り歩いた。
「なっと なっと なっとー」
「なっと なっと なっとー」
 右肩に担いだかごに納豆を入れ、首を45度に曲げてうつむき加減に道を小さく歩く、冬の日の彼のすがたは今も目に浮かぶ。みんな貧しく真剣に生きていた。だますこともだまされることもない美しい時代だったと思う。
「なっと なっと なっとー」
「納豆屋さん。いくつ残っている。みんな置いていっていいよ」
 菅波さんの家では、女中さんが出てきて残った納豆を毎朝買ってくれた。
 小林君が納豆を売りに出たのは、家計を支えるためだった。二人だけの生活でも、子どもの働きで家族を支えることはできない。彼のおかあさんは木崎の製糸工場に住み込みで働いていた。子どもの頃のことで詳しいことは分からなかったが、複雑な事情があって、小林君は母親の存在を否定し最後まで話すことはなかった。彼のおかあさんが毎月仕送りをしていたことは知っていた。
 小林君は一人になるといつも歌っていた童謡がある。

 

   おかあさんっていいな 僕のかあさんいないけど 呼んでみたいな おかあさん

 

 誰の作った童謡かわからないが、それだけを何度も口ずさんでいた。
 凍てついた月に照らしだされた町並みに、コールタールを塗ったトタン屋根がまぶしいように光り輝いている。前の晩に缶に仕込んだ芥子(からし)をかごに入れると、霜柱をさくさくと踏んで納豆を仕入れにいく。彼の童謡がはじまる。

 

   おかあさんっていいな 僕のかあさんいないけど 呼んでみたいな おかあさん

 

 彼のお父さんはそれから2年目に亡くなった。そして、間もなくおかあさんも亡くなった。小林君の消息を知る人はいない。

2018年5月28日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 2 しょうどん

作者不詳 行田市北谷住人

 信吉が子どもの頃、しょうどんという丁稚(でっち)がいた。しょうどんは十二、三才で信吉がどこへ行くにも必ず後についていた。
 手先が器用な子で祭り近くなると、信吉が乗れるほどの山車を作って、近所の子どもたちに町内を引かせて歩くことを自慢していた。山車は豪華に作られて、子どもが作ったようなものではなかった。
 山車の車、囲いは硬い材料の欅(けやき)を使い、柱から屋根にかけては柔らかい朴(ほお)や杉の材料を使った。古着屋で捨てられるような古代衣装を貰って囲いにし、屋根上の幟(のぼり)には鍾馗の雛人形を立ち上げたから、祭りの山車にも引けをとらない出来栄えだった。その中でも左右の昇り竜、下り竜は傑作で何ヶ月もかけて夜なべに仕上げたものである。
 竜の作品はいつも肌身はなさず懐に入れて、紙やすりで暇にまかせて磨(みが)いていた。しょうどんは信吉についているだけで、これといった仕事はない。頼まれれば使い走りもしていたが、一人でいるといつも唄っていた歌があった。
「お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな・・・」
「お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな・・・」
 しょうどんの出生は分からない。母親は新地(新しく開けた土地)にいた女性で、荒川土手で殺されたと聞いていた。身寄りがなく家で引き取ったと聞いたことがある。そのしょうどんが家を出ていく日が来た。しょうどんは泣きながら畳に両手をついておじいちゃんに謝っていた。
 しょうどんは裏庭の桐(きり)の木の根元に大きな青大将を飼っていた。信吉は見たことはなかったが家のものに発見されて大騒ぎになった。
「いつから飼っていたんだ」
「ずーと前から、俺のかあちゃんなんだ。毎日ご飯持って行くんだ」
「へびがおかあちゃんっておかしいじゃないか。あのへびを川に流さないうちは、家の中に置いておくわけにはいかない」
 おじいちゃんは顔色を変えて怒っていた。しょうどんのおかあさんは巳年(みどし)生まれで、小さいとき母親を亡くしてからは、へびを見るとおかあちゃんがいると思うようになっていたという。その日しょうどんは大きな青大将を風呂敷に包んで懐(ふところ)に入れると黙って家を出て行った。
「お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな・・・」
「お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな・・・」
 しょうどんはその先の歌詞は知らなかったのか、山車を引くときも昼間なのに口ずさんでいた。いつも側にしょうどんが立っていて、砂利道(じゃりみち)をがたがた音を立てて引かれる轍音(てつおと)が耳に残っている。
 信吉が東京の学校に行くようになってから、しょうどんは一度たずねてきた。素足に雪駄(せった)をはいて太い絞(しぼ)りの帯を締(し)めていた。
「ボン、大きくなって、みなさんもお元気で、ご無沙汰してます」
「しょうどんか」
「へい」
 信吉はしょうどんに、紫の袱紗(ふくさ)に包まれた分厚い札束を渡されたが、受け取らなかった。
「ボン、覚えてますか」といって、口ずさんだ。
「お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな・・・」
「お月さまいくつ 十三七つ まだ年ゃ若いな・・・」
 その後、しょうどんの消息(しょうそく)はわからない。

2018年5月5日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 3 とおりゃんせ

作者不詳 行田市北谷住人

 みっちゃんが町へ出るには信吉(しんきち)の家の前を通らなければならない。信吉はみっちゃんが通る時刻になると、門の陰に隠れて待っている。家の前に来たときに飛び出して、
「ここは俺んちだから通っちゃ駄目だ。帰れ!」
「・・・」
 毎日のことだが、みっちゃんは泣きながら帰って行った。
 家の者にいわれたのか、前を通るときは、花束を持ってくるようになった。信吉は手にした花束を足で踏みにじってしまったが、そのうちの一本だけ手にすると駈け出した。
 蓮華寺(れんげんじ)通りの蓮華寺は法華宗で10月13日は、宗祖日蓮大聖人様の御入滅に当たり盛大な法会を行う。この日はお会式といって町内の家は軒毎に万燈(まんどう)に灯りを入れて、狭い通りは道一杯の夜店が並んでいた。一年で一番賑やかな日になる。町角に足踏みの錦飴が売られ、バナナのたたき売りが威勢のいい声で「これでも駄目なら持っていけ」と通行人に呼び掛ける。
 みっちゃんが花束を持ってくるようになってから、信吉のいじめの焦点がぼけてしまった。みっちゃんは同い年か一つ二つ上だったかもしれない。信吉がみっちゃんに興味を持ち始め、いじめだしたのは、信吉が五、六才のことで、みっちゃんをいじめることで、信吉は初恋の意思表示をしていたのかもしれなかった。
 10月13日は途中から雨が降り出した。信吉はとぼとぼ雨の中を行くみっちゃんに唐傘をさしかけた。
「入れよ、濡れちゃうぞ」
 みっちゃんは口をきかなかったが、黙ってうなずいて傘の中に入ってきた。唐傘は信吉の身体をすっぽり覆いかぶさるような大きさだった。信吉はかっこわるく唄い出した。

 

   とおりゃんせ とおりゃんせ ここは何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
   行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 

「みっちゃんも唄えよ、一緒に唄えよ」
「・・・」
 みっちゃんは家に着くまで口をきかなかった。家に着くと「ありがとう」とも言わず中に入ってしまった。信吉は雨の中をずぶ濡れになって、唐傘を道にころがして大きな声で唄いながら帰ってきた。

 

   とおりゃんせ とおりゃんせ ここは何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
   行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 

 信吉は唄っているうちに悲しくなって、雨に打たれながら涙を流した。あの時が信吉の初恋としたら、信吉は相当ませていたことになる。
 みっちゃんはその後、信吉の家の前を通らなくなった。その頃蓮華寺通りから仲町に抜ける新道ができたからである。
 信吉は今でも雨が降ると時折思い出すように口ずさむ。

 

   とおりゃんせ とおりゃんせ ここは何処の細道じゃ 天神様の細道じゃ
   行きはよいよい 帰りは怖い 怖いながらも とおりゃんせ とおりゃんせ

 

 みっちゃんは初めから終わりまで口をきくことがなかった。信吉はみっちゃんがどういう声の持ち主なのか知らなかった。
 その後みっちゃんがどうしているか分からない。信吉はその面影すら思い浮かべることはできない。

2018年6月28日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 4 後ろの正面だーれ

作者不詳 行田市北谷住人

 春先になると、薬売りが毎年富山から紺の脚絆(きゃはん)に大きな薬箱を背に、その年使った薬の交換に来た。毎年のことで顔見知りになり、縁側に腰を下ろすと、きれいに包まれている大きな無地の紺の風呂敷を開けて、毎年同じような紙風船を子どもたちに持って来てくれた。
 時には双六があったり、男の子には加藤清正の紙兜があったりした。この頃から町の中に行商する人たちで賑わってくる。
 錠剤売りが天秤に担いだ箱に錠をかたかた鳴らしながらゆっくりした足取りで町を流して行く。金魚売りが同じような足取りで、売り声の「金魚ぅー、金魚ぅー」と声を上げながら歩いていく。道の端にリヤカーを寄せた羅宇(らお)屋が湯気の蒸気に笛を鳴らし、豆売りのリヤカーが走っていく。
 夕方に豆腐屋のラッパの音がして、近くのおばさんたちが入れ物を持って買いに出てきた。
 何時からともなく、子どもたちは学校が終わるとみんな社の庭に集まってきた。

 

   かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出あう
   夜明けの晩に つーると亀と すーべった
   後ろの正面 だーれ

 

 意味もわからず何回となく唄いながら輪になって手を繋ぎ、あてられた子どもが輪の中に入って両手で目をふさいだ。金ちゃんは男の子だが、赤ん坊を背負い、二人の妹を両手に遊びに来ていた。学校へ来る時も、背中に子どもを背をっていた。
 金ちゃんは喧嘩が強く負けたことがない。目がぎょろぎょろしていて、妹がかごめの遊びの中へ入っているときは、遠くで終わるまで立って見ていた。金ちゃんは人前で童謡を唄ったことはない。暗くなってみんな帰るころになると、二人の子供の手を引いて、口の中で小さく唄いながら帰って行った。

 

   かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出あう
   夜明けの晩に つーると亀と すーべった
   後ろの正面 だーれ

 

 金ちゃんはほとんど学校へ出てこなかった。学校へ来る時は新聞紙にさつまいも二本持ってくるだけで、弁当を持ってくることはなかった。授業中でも子どもが泣きだすと教室から出ていって、鉄棒の下で子どもにさつまいもを食べさせていた。
 金ちゃんの子どもをあやす歌は決まって、

 

   かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出あう
   夜明けの晩に つーると亀と すーべった
   後ろの正面 だーれ

 

と唄っていた。金ちゃんは他の歌は何も知らなかったのかも知れない。今もこの歌を聞いていると、その頃の金ちゃんのことが思いだされる。
 信吉は金ちゃんの目玉が怖かったので近づくことが出来なかったが、時々一人でおむすびを作って、金ちゃんの遊んでいる社に持って行った。

 

 金ちゃんは目玉をぎょろつかせながら、何も言わずに受け取ると泥だらけの手で二人の妹に渡して自分では食べなかった。
 昔と変わらず社はそのままに残っている。行ってみると広い遊び場と思っていた庭も一握りの場所でしかない。金ちゃんが今何処で何をしているのか、私にはわからない。

 

錠剤売り・・錠剤の薬を売り歩く薬屋。
羅宇屋・・キセルの修理と清掃をする専門の職人。キセルを清掃する湯気の蒸気で「ピー」という笛を鳴らしてやってくる。

2018年10月1日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 5 蛍のちょうちんコッチヨ!new!

作者不詳 行田市北谷住人

 母屋の東を流れる小川は田植え頃から、稲刈りの終わる頃まで水かさが増し流れも速かった。水草の影の流れに逆らうように、小鮒(こぶな)が背を返しながら泳いでいる。時々大きな魚が少し顔出しては、人影に驚いたように勢いよく身を翻(ひるがえ)して藻(も)の中に隠れていく。
 信吉は下駄履きに麦わら帽子を被ると小川に魚釣りに出かけた。淀みにおもしを軽くして、小さな豆浮かしをたくさんつけて流れないように静かに下げていく。時には米粒(浮き)やとんがらし(浮き)をつけることもあった。
 釣りの仕掛けはぼかん釣りと流し釣りとある。ぼかん釣りは丸い小さな、なまり玉の下に針を一本、玉の上に枝針を一本仕掛ける。流し釣りは板なまりが底に着かないように、静かな流れに流しながら釣る。
 餌はみみずでゴミ捨て場で一堀りすれば、大きいみみずや小さいみみずがいくらでも捕れた。信吉は器量の良い小さなみみずだけを選んで餌箱の中に入れた。
 豆浮かしを静かに食いあげて来たときは、引きも強く大きい四、五寸の鮒がかかってきた。みんなが集まって、この川で水浴びもした。川の深さは一メートル以上あるから、信吉の背丈では届かない、流されてしまう。
 毎年八月に入ると、ほたるが飛び交うようになる。日、一日と少しずつ数は増えていくが「蛍二十日に蝉(せみ)三日」と言われるほどに蛍の命は儚(はかな)い。

 

   ほっほっ ほーたるこい あっちの水は 辛いぞ
   こっちの水は 甘いぞ ほっほっ ほーたるこい

 

 夜になると子供たちは高ぼうきでほたるを追った。ほたるの数は沢山いるのでいくらでも捕れる。無数のほたるが露草の上からぽぉーと、淡い黄色の小さな光を明滅(めいめつ)させながら飛んでいく。
 石屋のあーぼーは、あんちゃん、あんちゃんと言われて、大事に育てられていたので、子供たちもあーぼー、あーぼーと呼ぶようになった。
 あーぼーは何時も一人でいて友だちは作らなかった。呼ばれても返事もしないが、いじめられることはなかった。
信吉はあーぼーをほたる狩りに誘ったことがある。あーぼーは何をやっても不器用なのに、ほたるを捕ることは得意で、虫かごの中には信吉の三倍も四倍も捕っていた。
 家に帰ってくると、おじいちゃんが
「あーぼー、そのほたる、おじいちゃんにくれないか」
「・・・」
「それを自転車に付けて、大荊まで行ってくるから」
「ほたるのちょうちんか」
 あーぼーは十円貰って、ほたるの籠をおじいちゃんに渡した。おじいちゃんの自転車は黒く小さな影になっても、前のハンドルに掛けたほたるのちょうちんは遠くまで小さく揺れていた。

 

   ほっほっ ほーたるこい あっちの水は 辛いぞ
   こっちの水は 甘いぞ ほっほっ ほーたるこい

 

石屋のあーぼーは生涯結婚することもなく亡くなってしまった。

2018年10月30日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 6 夕焼け小焼けコッチヨ!new!

作者不詳 行田市北谷住人

 二百十日が近くなると、稲がたわわに実ってくる。信吉は手拭いを二つにして縫った袋を提げていなごを取りに行った。
 そこでも向こうでも、稲の中を泳ぐように手を伸ばして、いなごを袋の中に入れている。いなごを取るには朝のうち、羽の夜露に濡れているあいだが飛べなくてよくとれると言われている。
 袋の中のいなごはがさがさ音を立てて、足を伸ばしている音が聞こえてくる。いなごは袋のまま熱湯に入れて茹で上げる。茹でられたいなごは三升のざるに上げられて陰干しされる。
 小豆3升入るので三升のざると言っていたのかも知れない。直径50cm深さ5cmほどのざるを言っていた。干されたいなごは足と羽をもぎって醤油で味付けされた。
 稲が刈り取られ、田畑の水の乾く頃、バケツを持った子供たちは裸足で田畑に入っていく。たにしは小さな穴を見つけて、指を入れれば簡単に取れた。土の感触が冷たく足に伝わる晩秋の夕日は美しい。誰かが唄い出した。

 

 ♪夕焼け小焼けで日が暮れて やーまのお寺の鐘が鳴る
  おーて手つないでみな帰ろー 烏といっしょに帰りましょう
  かえるが鳴くから かーえろー♪

 

と付け加えた。
 日暮れになる頃は、バケツに半分ほどのたにしが入っていた。みんなで合唱する歌声はだんだん大きくなっていった。手足も顔の目鼻も泥まみれになっている。
「才ちゃんは青い顔して寝てるぞ」
「死んじゃうかな」
「うちの母ちゃんは、うつるから行くなって言っていたぞ」
「きっと死んじゃうよな」
 その頃の結核は不治の病気だった。子供の頃知っているだけでも、三高を卒業した薬屋の和さん、呉服屋の真ちゃん、洋服屋の山ちゃん、才ちゃんも間もなく死んでしまった。妹もいたが、感染して亡くなった。
 信吉たちは、その日に取れた、たにしを才ちゃんの家に持っていった。みんな貧しかったが、歌声は元気だった。

 

 ♪夕焼け小焼けで日が暮れて やーまのお寺の鐘が鳴る
  おーて手つないでみな帰ろー 烏といっしょに帰りましょう
  かえるが鳴くから かーえろー♪

 

「才ちゃんは寝ていて、俺たちの歌声を聞いているぞ」
「聞いているかな」
「寝ていて一緒に唄ってるかもな」
「はーやく元気になーれ」
 才ちゃんの家は、おじさんが亡くなり、おばさんも亡くなり家中亡くなってしまった。裸足のまま泥だらけの顔で、みんなしてたにしを持って行ったとき、おばさんは前掛けの中に手を入れて悲しい顔をしていた。
 美しい夕焼けとともに、悲しい思い出も残っている。

2019年1月2日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 7 あかとんぼコッチヨ!new!

作者不詳 行田市北谷住人

 小さな忍十万石の城下町は、町の中に何処にも川が流れ、廃藩置県の前までは外敵が侵入しても逃げられないように、道幅は狭く袋小路が多かった。
 北谷は秩父の行田駅(現在の行田市駅)の前から星宮、北谷、帯廓、新開地と一条の通りとなって、矢場、持田、熊谷まで二里と続いている。
 僅か100Mほどの北谷の通りも、一筋の狭い道路が碁盤の目のように両脇二十軒ほどの戸数に、東町、蓮華寺町、仲町、鷹部屋町となって地獄橋を挟んで忍川は、北の谷郷から町の中心を流れる忍沼にそそがれていた。
 忍沼のほとりの小学校(市役所の所にあった忍町尋常高等小学校。2月号の忍沼の地図を参照)の庭には、校庭から釣り人が魚を釣っている姿が見られた。北谷の南の川は南に流れ、警察、地方庁舎、町役場の裏を流れて、田山花袋の田舎教師の主人公、小林清三の住んでいた近くの柳の湯の脇を流れている。今はその面影も現存していない。
 関口の亀ちゃんは、愚弟賢兄の三男で、兄が二人いた。何時も「亀は駄目だ、何をやらせても」と家の者に言われ馬鹿にされていたが、信吉は亀ちゃんをそうとは思っていなかった。
 お人よしで何時も笑顔で、ニコニコしている。人のいうことは笑いながら何でも聞いていた。頼まれれば嫌な顔もせず、みんなから重宝がられていたが、学校の宿題は真面目にやってきたことがないので、何時も廊下に立たされていた。

 

「亀ちゃん、また立たされているな」
「常習犯だからな、今日も職員室の掃除だ」

 

 亀ちゃんはおとなしくて機転がきく。叱られながらも、先生のがりばん刷りを鼻の頭を真っ黒にして、職員室でよく手伝っていた。
 宿題はやってきたことはなかったが、彼の帳面はどれも綺麗な略画が描かれ、狐、狸、兎、亀、犬、猫、と鳥獣類の画が得意で、上手綺麗に彩色された画は誰も真似することはできなかた。
 亀ちゃんは、自分で考えている彼自身の哲学があった。勉強は学校でやるもので、家に帰ってまでやるものではない。と、信吉はそうは思わなかったが、六年生を卒業するまで彼の持論は崩れなかった。亀ちゃんの好きな唄がある。

 

♪ゆうやけこやけの あかとんぼ おわれてみたのは いつのひか
やまのはたけの くわのみを こかごにつんだは まぼろしか
じゅうごででねえやは よめにゆき おさとのたよりも たえはてた
ゆうやけこやけの あかとんぼ とまっているよ さおのさき♪

 

 よく覚えて唄っていた。東町に空き地があって秋になると、草いきれの中に赤とんばが広場一面に敷き詰めたように、頭の高さに静止しているように目の先に浮かんでいる。顔に当たるかと思われるほど飛んでいた。
 亀ちゃんは信吉の家に一緒に帰ると、赤とんぼの歌を大きな声で唄いながら、大きな画用紙一面に真っ赤な赤とんぼの画を一気に描きはじめた。

 

♪ゆうやけこやけの あかとんぼ おわれてみたのは いつのひか
ゆうやけこやけの あかとんぼ とまっているよ さおのさき♪

 

信吉と亀ちゃんの友情は今も続いている。

2019年1月29日掲載

行田昔ばなし 十三七つ 8 こもりうたコッチヨ!new!

作者不詳 行田市北谷住人

♪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン♪

 

信吉はこの歌を一人で唄っていると悲しかったが、友だちにはそんな顔を見せたことはない。信吉が生まれて間もなく、信吉のおかあさんは家から出ていった。

 

昔のことだから、当時の恋愛結婚はタブーとされ、信吉が生まれると嫁は家の家風に合わないというだけで家を出されてしまった。

 

信吉は子供のころから雨の日が好きだった。外で遊べない日が続いても、雨の日は庭も、道路も一回り大きく見えた。じめじめした入梅の頃も、土の黒さに暖かさが感じられ、ぬかるみに長靴で入ってゆくのが好きだった。

 

三年して、父は再婚して二人目のおかあさんが来た。はじめにおばあちゃんが「おかあさんっていうんだよ」と言われたが、数え四歳になっている信吉は「おかあさん」という言葉は出なかった。

 

呼ぶこともないので「おかあさん」という言葉を忘れたように未だに言ったことがない。生涯言わずに過ごしてしまうのかもしれない。

 

信吉は「おかあさん」と発音することに抵抗があった。おかあさんの「お」をドレミのどこからはじめればいいのか、真剣に考えたことがある。

 

遠いところに行ってしまったおかあさんを思い描きながら、雨の日になると信吉は唄った。

 

♪あめあめ ふれふれ かあさんが じゃのめで おむかい うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン♪

 

道行(みちゆき)(*1)を着て蛇の目傘を持ったおかあさんを思い描いた。新しいおかあさんに弟と妹が生まれた。信吉は家庭の中で孤独になって行った。頼るのはおばあちゃんだけで、柔らかなモスリン(*2)のねんねこに背負われた感触は今も肌に残っている。乳飲み子でおかあさんと別れた信吉は母の懐は知らない。おばあちゃんは神経質に泣く信吉を背負って夜通し歩いていたと聞かされたことがある。

 

♪ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよいこだ ねんねしな
ぼうやのおもりは どこへいった あのやまこえて さとへいった
さとのおみや(*3)に なにもろた でんでんだいこに しょうのふえ♪

 

住み込みのお姉さんがいたが、夜中は言うことを聞かず、おばあちゃんは昔からのこもりうたを唄った。信吉は支那そばの味を覚えさせられてからは、チャルメラの音が聞こえると目を覚まし夜中に後を追っていく。

 

幼児期の信吉は父母の愛情も知らず、叱られることもなく成長した。信吉に男の子の孫が生まれた。膝に抱き上げて唄いはじめる。

 

♪ねんねんころりよ おころりよ ぼうやはよいこだ ねんねしな
ぼうやのおもりは どこへいった あのやまこえて さとへいった
さとのおみやに なにもろた
でんでんだいこに しょうのふえ♪

 

*1.和装用のコート
*2.羊毛などを平織りした薄手の織物
*3.土産(みやげ)をいう幼児、女性語。

2019年3月2日掲載

 

 

 

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