| 戦時下の女学校生活
羽山 俊子 昭和十五年は皇紀二千六百年という、当時の日本としては大変な年でした。その年に、私たちは忍高女に入学しました。それまでは一学年が百名でしたが、私たちから一クラス増になって百五十名となりました。皇紀二千六百年の祝賀行事が国を挙げて行なわれている中、忍町では提灯行列が行なわて、忍高女も学芸会で上級生が劇をやり、一般の人にも見せてお祝いしました。 二年生(昭和十六年)の十二月八日に米国と戦争となり、その後は、戦況が少しずつ変わり、三年生からは英語の授業がなくなり、教練などが加わり長刀(なぎなた)の寒稽古などやりました。出征兵士の家庭への麦刈り、じゃがいも掘り、蚕上げ、田植え、稲刈りなどの勤労奉仕や、土日の宿題のイナゴ取り―もちろん、羽根と足を取ります―、学校の周りのイチョウの木の炭焼き、軍需衣料製作の作業が加わり、学習面は非常に減ってしまったように覚えています。 特に思い出されるのは、昭和十八年、私たちが四年生のとき、北白川宮妃殿下が、軍需品の作業をご視察にいらっしゃったことです。ご視察があるということで、校内の大掃除、作業時間のたびにトイレの汲みとり、廊下を一生懸命磨いて、お出迎えの練習も何度もやりました。当日はすごく緊張したことを覚えています。宮様は手作業で襟章とかボタン付けをしているところをご覧になり、敷かれた布の上をお通りになりました。宮様のファッションが周りの人とは違って素敵で、ハイヒールを見たのは初めてでした。 修学旅行もなく、卒業アルバムもなく、数人のグループ毎に撮った写真があるだけで、それが女学生時代の思い出としてあるだけです。平和であることのいかに大切であるかを今考えています。そして、行田女子高いや私たちには忍高女ですが、統合された後、校名はなくなっても、卒業生の心の中には、埼玉県立行田女子高校の名はずっとずっと生き続けることでしょう。 ※皇紀とは、明治政府が定めた日本独自の紀元で、神武(じんむ)天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を皇紀元年とした。 ※今回の遠き日々は、元の原稿に卒業生による座談会の内容を加味・加筆させていただきました。 ※昔の行田を知る手がかりに、後世に伝えるきっかけに掲載させていただいています。 |