| 戦中派? 大谷 秀子
昭和十六年四月「忍高女」に入学、同年十二月大東亜戦争勃発、昭和二十年三月に四年生で卒業のはずがそのまま学校に残り「専攻科」として軍需品の生産へ。そして、八月の終戦と同時に終了。私たちはそんな学年です。 小学生から女学生になり、教科毎に先生が替わり、英語・裁縫・手芸・お作法などの授業。また、他地区からの自転車通学や電車通学の新しい同級生たち。毎日が物珍しく友達も増え、明るく楽しい学校生活の始まりです。三つ編みの髪、セーラー服にひだスカート。そして、カバンと日本刺繍の道具を小脇にかかえ、優雅に颯爽と歩く上級生の気品ある女学生姿は私たちのあこがれで、早くそうなりたいと思ったものです。 戦争が激しくなるにつれ「学校工場」が設営されることになり、町の軍需工場へ、動力ミシンによる単衣の縫製の勉強に通いました。あまりの速さや轟音に驚かされたものです。学校では、音楽室など四つの教室に動力ミシンがズラリと並び、三・四年生がその生産にあたりました。それぞれの教室は、特攻隊の万朶隊・朝日隊・菊水隊・敷島隊とし、白手拭いをキリリとしめて、能率向上に励みました。 服装はヘチマ衿に白いカバーをかけた制服、裾ゴム入りのズボン、紺の割烹着式の作業衣、胸には名前と血液型を書いた名札をつけ、防空頭巾、救急カバン(いり豆、カンパン等入り)を肩からたすきがけで通学しました。勤労奉仕で、なれない農作業にも行きました。薙刀や竹やりの訓練も行ないました。 食料も物資もないそんな時代でしたが、今、思い出しますと、苦しかった、辛かったという思いはなく、楽しい懐かしい青春時代の友の顔のみが浮かびます。
※昔の行田を知る手がかりに、後世に伝えるきっかけに掲載させていただいています。 |